ブックコレクション

墨東公安委員会の
「今週の一冊」
〜上野千鶴子からシュリーマンまで〜

第65回〜(6クール目)


#今週のフェミニズム(連載6クール終了記念特別編)

 歴史的に言うと家事使用人のあとで主婦という社会的存在がでてくる。主婦というのは実はかつて家事使用人がやっていた労働をやっている人です。主婦労働を家事使用人に任せることができるというのは、話の順序が逆なんで、家事使用人のやっている労働を後で主婦がやるようになる。これだけの話です。

上野千鶴子『資本制と家事労働 マルクス主義フェミニズムの問題構制』海鳴社

 メイドさんの存在をよりよく理解するためには、近代家族論や女性学の理解が不可欠であると筆者はつねづね考えておりますが、日本の研究者でこの分野の代表的研究者といえば、やはり上野千鶴子氏の名を挙げることにどなたも異存はなかろうかと思います。上野氏の構築したマルクス主義フェミニズム理論の入門として好適な一冊です。もっと本格的に取り組みたい向きは『家父長制と資本制』(岩波書店)を読まれると宜しいでしょう(今回は時間がなくて・・・)。
 さて、ここでちょっと個人的な思い出話を一席披露したいと思います。筆者は以前、上野氏の近代家族についての授業を受けたことがあるのですが、初回はこの分野についての内外の様々な文献を記載したリストを配り、代表的なものを説明するという内容でした。話を聞いていて、筆者はふとあることに気がつきました。日本の学者を紹介するとき、上野氏は「瀬地山さん」とか「落合さん」とか、みな「さん」付けで呼んでいたのですが、どういうわけかただ一人、呼び捨てにされていた例外がいたのです。それこそ誰あろう、先週紹介の一冊で鎌やんと対談していた、宮台真司氏に他ならなかったのであります。上野氏は授業の最後に学生に紙片を配り質問や感想を書かせますので、筆者は迷った末、匿名でこう記しました。
「なんで宮台だけ呼び捨てなんですか?」
 そうしたら次の週、上野氏は筆者のこの馬鹿な質問にも、懇切にも答えて下さったのです(これが読み上げられた瞬間、教室は爆笑の渦に包まれました)。上野氏が苦笑混じりに? 述べたことには、
・宮台は大変に著名であるから。
・親愛の情を示して。
 だそうですが、どこまで真意なんだか分かったものではありません。近代思想に詳しい仙地面太郎氏は、上野氏が宮台のことを低く評価していると主張されてましたな。え、筆者の見解? 上野先生には2単位の恩があるので客観的な評価は致しかねます。
 ともあれ、メイドさんを語る基礎教養として、フェミニズムを踏まえた家族論は、是非知っておくべきことだと思います。

(連載第76回・2003.8.6)


#今週のロリコン

「こんな話はどうだろう。制服マニアの男が主人公だ。(中略)メイドさんを出しておこう。男に仕えている。だが男には気にくわない。メイドが従順であることが気にくわない。メイドが従順でないことが気にくわない」
「どういうこと?」
「自己嫌悪なんだよ。人間は自分を通じてしか他人をはかることはできない。男には自分自身を直視する勇気がない。メイドの姿に自分を見る・・・そのことが不快なんだ」
(注:引用にあたっては適宜句読点などを加えた)

鎌やん「制服考」
(『新世紀鳥獣戯画 アニマル・ファーム』コアマガジン ホットミルクコミックス)

 メイドものマンガとして『花右京メイド隊』がありますが、その作者もりしげは、以前誰も真似できないような特異な作風のロリ系マンガを描いていました。そして、同じく誰にも真似できないような特異なロリ系のマンガを描いているのが今週取り上げた鎌やん(昔はカマヤン)であります。方向は異なれど独自の境地を持つ二人、一時期は合同で同人誌も出していましたが、いろいろあったらしく今はそういうことはしていないようです。
 さて、引用部は表題の通り制服を題材に、E・フロムの唱えたネクロフィリアという概念について考察した一編であります(念のため書き添えておきますが、この本は成年コミックです)。そこで制服からメイドさんが出てくる、という例示が妥当かどうかは論点たり得るかと思いますが今はさて置いて、「メイドの姿に自分を見る」という指摘は、メイド趣味関係者にとって重要なのではないかと思うのであります。
 他にもメイドさんについて触れた話も収録されているし(先週の一冊は本書からの孫引き)、アリスのイメージからか幼女の服がメイド服だったり、巻末にはなんと宮台真司との対談まで収録されてたり、面白い一冊です。「抜けません」と鎌やんは自分のサイトで書いてたし、その通りだけど。
 余談ですが、筆者が持っている宮台真司の言説が載っている本は、本書だけだったりします(笑)

(連載第75回・2003.7.27)


#今週の階級差別

 しかしもっと別種の深刻な問題があった。この問題にこそ西側の階級の違いにかんするほんとうの秘密がある。すなわち、ブルジョア出身のヨーロッパ人が、たとえ自分が共産主義者のつもりであっても、よほどの努力をしないかぎり、労働者階級と自分を対等だとみなすことができない理由がそこにあるのだ。それはつぎの短く恐ろしい言葉に要約される。この言葉は昨今では口にされないが、私の子どもの時代には半ば公然と使われたものだ。その言葉とは、下層階級は悪臭がするというものだった。
(中略)年はもいかないうちに労働者階級の肉体について何となくいやらしいものだという観念にとりつかれると、労働者にはできる限り近づかなくなるものなのである。(中略)そして、たとえば召使いのように、まったく清潔だとわかっている「下層階級」の人びとにもかすかなむかつきを感じたものだった。彼らの汗の臭いや皮膚のきめそのものが、ふしぎと自分たちのものとは異なってみえた。

ジョージ・オーウェル(高木郁郎・土屋宏之訳)
『ウィガン波止場への道 イギリスの労働者階級と社会主義運動』ありえす書房現代史叢書

 『1984』や『動物農場』などの作者として名高い英国の作家ジョージ・オーウェル(1903〜50)の、1937年に出版された作品です。本書の前半は、オーウェルが見聞した1936年当時の不況に喘ぐ英国の鉱工業都市のルポに当てられ、後半はそれをもとに社会主義に対するオーウェルの見解が述べられています。引用部はその後半の最初のところで、中産階級と労働者階級を隔てる見えない壁について、オーウェルはこのような指摘を行っているのです。
 イギリスは階級社会であり、メイドさんの存在もその背景ぬきには考えられない存在です。その階級社会ゆえの人間の思考パターンをオーウェルは指摘しているわけですが、一般に英国のような階級社会ではないとされる現在の日本に住む我々においても、引用部のような思考のパターン(差別と言い換えてもよいでしょうが)は無縁ではないように思われます。
 本書でオーウェルは、労働者階級をこのように偏見のまなざしで見ている中産階級(彼自身もここに属する)は次第に解体しつつあり、社会主義がより人間的なものに変わることで、労働者階級と中産階級を共に自らの陣営に取り込み、ファシズムの打倒が可能になるのだと主張しています。しかしその後の歴史の歩みとオーウェルの軌跡を見たとき、本書の主張をもとに考えるべき事はなおも数多くあるのではないかと思うのです。

(連載第74回・2003.7.20)


#今週の経済学

かりそめにも紳士の執事や使用人が、あたかも平素の職業が農夫や牧夫であることを窺わせるような未熟なスタイルで、主人の食卓や乗り物に関する職務を遂行したら、それは著しい不満の種になろう。そのような不細工な仕事が意味するのは、主人の側に特別に訓練された使用人のサービスを確保する能力が欠けている、ということである。すなわち、熟練をつんだ使用人に厳格な作法に従った特別なサービス能力を身につけさせるために必要な、時間と労力の消費と教育費支払いの能力がない、ということを意味する。使用人の行為が主人の資力不足を証拠立てる場合には、それは、自らの何より重要な目的を踏みにじることになる。というのは、使用人の主たる効用は、彼らが持つ主人の支払い能力の証拠にあるからである。

ソースティン・ヴェブレン(高哲男訳)『有閑階級の理論 制度の進化に関する経済学的研究』ちくま学芸文庫

 ヴィクトリア朝英国とかでメイドさんを雇う理由に、階級社会における体面を保つためという理由が挙げられます。しかしまたなんで、「体面を保つ」必要があったのでしょうか、またその手段が使用人を雇うことだったのでしょうか。本書を読めばその原因の一端を窺い知ることが出来るかもしれません。
 ヴェブレン(1857〜1929)はノルウェー系アメリカ人の経済学者で、「アメリカが産んだもっとも偉大なアメリカ批判者」とも言われるそうです。19世紀末のアメリカは経済的に成長し、それに伴い派手な消費文化が花開きました。ヴェブレンはその風潮を踏まえ、このような消費文化の本質は、以下に自分が偉大であるか=多くの富を持っているかということを見せびらかすための「顕示的消費」であると断じます。そして、直接に生産的労働に従事することの無い「有閑階級」がその消費の主な担い手で、彼らが社会の制度(ヴェブレンの用法では、制度とは思考の習慣ということだそうです)を形作ってきたのです。だから、「顕示的消費」をすることが名誉ある、立派なことと皆が思っているのだと。引用部はその一例としての使用人の意味を述べている箇所です。
 なにせ、要約を述べることも僅かな紙数では敵わぬほど示唆されるところが多く、じっくり読みたい一冊ではありますが、文章は到底読みやすいとは言い難いので、それなりの覚悟を持って読んで下さい(苦笑)。

(連載第73回・2003.7.12)


#今週の家族論

『ゲゼルシャフツシュプーゲル』に載った料理女中ゲルトルーデの書簡は、女中労働の形態を端的に示している。すなわち、「この家では七時に鈴の音が鳴り始めます。最初は主人が髭剃り用の湯のために鈴を鳴らし、ついで奥さん、娘、息子と続きます。一〇分間の間に階段の登り降りを一〇回もくり返し、まったくこの高貴な人びとには手をやきます。この人達は自分では何もできず、もし哀れな女中がこの世に存在しなかったなら完全に不幸になること、請け合いです」と。まさしく、鈴の音とともに一方的に個人的サービスが要求され、女中がこれを一手に請け負う関係にあった。そもそも、消費的機能へと狭隘化し、私的労働として孤独化する近代的家事労働において、女中と雇主家族を包含するがごとき労働共同体は、成立しえようはずがなかった。

若尾祐司『ドイツ奉公人の社会史――近代家族の成立――』ミネルヴァ書房

 まさに表題の如く、ドイツの奉公人――農村の年季奉公人から都市の使用人まで――の歴史的変遷を家父長制に基づく家族からパートナーシップに基づく近代の家族への移行という流れの中で検討した書です。奉公人とは労働者と異なり、家長に人格的に従属する存在でした。ドイツのメイド(マークト)の置かれた社会的状況が厳しかったことは以前紹介した本にもありましたが、その原因は大雑把に言えば家長に従属する奉公人という意識にあったのです。なぜドイツがそうなったか大雑把にいえば、ドイツ統一の中心となったプロイセンでは、エルベ川以東のグーツヘルシャフトと呼ばれる貴族(ユンカー)の経営する農場が、その労働力を確保するため農民の子弟を強制的に奉公させるという西ヨーロッパと逆の流れがあったためであり、またルター派の影響もあったためと言えるでしょう。
 それはともかく、本書によれば、家父長制のもとで奉公人をも包摂した「家」が近代家族へと変化する過程で、奉公人は家共同体の範疇から除外され、奉公人自体も農業奉公人から家事奉公人に変質し、消滅してゆくのです(引用部は20世紀初頭頃です)。家族論はメイドさんを考える上で重要な鍵ですが、いろいろと勉強になる本です。

(連載第72回・2003.7.7)


#今週の転職

 売春の原因に関しては、(その大半がフェミニストではないにせよ女性の歴史家たちによって行われている)近年の議論の傾向は、社会的必要悪、すなわち「生き延びるための戦略」としての売春を強調するものになっている。女性たちは貧困のゆえに短期間売春を行わざるをえなかった、というのである。(中略)しかしこれが解答のすべてでないことは明らかである。
 ハヴロック・エリスが指摘したように、売春婦たちの多くは「経済的不安から最も自由な労働者の一団」、すなわち家事労働者の出身だった。実際、異なったいくつかの調査が、売春婦のうち四〇ないし五〇パーセントまでもが使用人階級から集められていたことを示している。したがって、経済的必要が最も根本的な原因だったということはありそうもない。(中略)想像上の華やかで愉楽に満ちた生活のために、単調さと骨折り仕事を意図的に拒絶するという選択は、おそらく売春婦のうち三分の一にとっては、主要な要因でありえただろう。

ロナルド・ハイアム(本田毅彦訳)『セクシュアリティの帝国 近代イギリスの性と社会』柏書房パルマケイア叢書9

 大英帝国において、性的な活動ということがどのような意味を持っていたのかを研究した一書です。主たるテーマは帝国に置かれているので、植民地において様々な人種に対して、英国人がどのように性的な行動をしたのかということに関する記述がもっとも充実していますが、引用部は「出発地」としてのイギリス社会を解説した章からです。英国の売春婦では、前職は家事労働者、要はメイドさんが最大のものだった、そして転業の理由は決して貧困に帰してしまえるものではなかった、ということですね。
 もっとも本書の他の箇所における記述によりますと、かかる出自である英国売春婦のレベル(容姿とかテクとか)は、世界最低水準との評価が同時代の英国人男性によって下されていたそうであります。そんでもって、栄えある第一位はどうやら日本だそうです。ああ、偉大なるかな吉原。
 とはいえこんな話は浩瀚な本書の内容のごく皮相に過ぎません。筆者が本書でもっとも重要な指摘と思ったのは(それは訳者も指摘していることですが)、19世紀後半の英国における社会浄化運動によって厳格になった性的規範が、他の非ヨーロッパ諸国に文明の基準であるかのように受取られてしまったこと(そのような性的規範の峻厳化を先頭切って行ったのは日本といえるのですが)、そしてそれは、実は誰をも幸せにすることがなかったのではないか、この規範によって抑圧された人間性を回復することがこれからなすべきことではないか、ということが本書の結論となっています。
 いろいろ触発されるところの多い本ですが、それだけに多少は世界史やジェンダー論などをかじってから取り組むべき本といえるでしょう。

(連載第71回・2003.6.28)


#今週の結婚詐欺

 概して申し分のない押込み強盗というのは内部の者の手引きによる犯罪だった。つまり召使いを抱きこんだ犯罪である。(中略)
 内部の者に手引きをしてもらうには、もう一つ既に雇われている使用人の一人と渡りをつけるやり方があった。多分これが最も一般的な手口であろう。渡りをつける方法はいくらでもあった。裏口にやって来て不要品を買って行く商人や行商人、召使いが利用しているパブでのらくらしている者や競馬の予想屋、一晩だけ雇われるウェイター ――その全てが誘惑者になり得た。手癖の悪い女中が、持ち物を調べられる前に小さな貴重品を処分したがっているような時は、渡りをつける絶好のチャンスとなった。また、仲間はまだ雇われているのに解雇された召使いも利用できる。とりわけ召使いは殆ど女性であり、大きな家を除いては、彼女らは大抵付き合える男性にこと欠いていた。すんなりと仕事をしたい泥棒にとって、「魅惑的な求婚」ほど役立つものはなかった。

ケロウ・チェズニー(植松靖夫・中坪千夏子訳)『ヴィクトリア朝の下層社会』高科書店

 泥棒のほか乞食や賭博者、売春婦などヴィクトリア朝の下層社会について、有名なメイヒューの作品などに依拠して叙述した本です。
 引用部は押込み強盗について触れた章からです。強盗の準備のために、予め強盗の側が仲間を使用人に仕立てて送りこむこともあったようですが、引用部のように召使いを抱き込む他、だまして家に入りこむ方法もあったようです。そういえばシャーロック・ホームズも「恐喝王ミルヴァートン」では鉛管工に化けてメイドさんをたぶらかし、家の鍵を開けさせておいて侵入する、なんてことをやってましたっけ。
 本書は研究書というより読み物なので、そして1970年というかなり以前に書かれた本なので、売春に関する章などを読むといささか見解に古いところが感じられます。そこらへんについてもうちょっと今日的な研究の成果を、次回は見てみることにしましょう。

(連載第70回・2003.6.21)


#今週のシャーリー

 子どもの「家事労働」は、子どもの搾取がさかんに行われているおもな産業分野のひとつであり、その多くが単なる奴隷労働にすぎないことが明らかになっている。(中略)
 八十年代に、チュニスの名の知れた医者とその妻が、暴力事件で訴えられた。二人は、一〇歳の家政婦が子守りをしていた赤ん坊にうっかり火傷を負わせた罰として、少女に熱湯をあびせ、それから五日間、地下室に閉じ込めた。この事件はスキャンダルとなったが、医者が非難されたのは虐待を加えたからであって、一〇歳の少女を住み込みの女中として雇ったせいではなかった。というのも、そのようなことはこの国では普通に行われているからである。
 最近ではスリランカで、一二歳の家政婦に腹を立てた雇い主が、ブリキ缶一杯の石油を頭からあびせて火をつけた。少女は生きたまま焼かれたのだった。パキスタンの新聞「ダスト・エ・シャフクアト」が報じるところでは、一二歳の女中に対し七人の男が集団暴行をはたらいたあげく、少女を死に至らしめた。男たちはいずれも地元の有力な地主だったため、だれひとり罪に問われることはなかった。

マルタン・モネスティエ(吉田春美・花輪照子訳)『【図説】児童虐待全書』原書房

 ご存知の方も多いと思いますが、原書房のあのシリーズの一冊です。いつもながらモネスティエ流の膨大な事例の積み重ねから、子どもを巡る現在の社会の様々な問題が描き出されてくるのであります。その中で、子どもを家事労働に使うというのも問題の一つの類型として描かれていまして、引用部はその章からのものです。子どもの兵士や売春と比べると扱いは軽いのですが、一つの問題は容易に他の問題と連関するのでありまして、幼い女の子の家事使用人が性的に虐待される例も多く、それは「性的な奉仕も仕事の一部であると、雇い主に広く信じられているから」だそうです。・・・チュニジアだのパキスタンだのに移住しようとか不届きな考えを起す人は、まさかいないですよね? 一歩間違うとこういう本、書いた人の意図とは違う意図で読まれてしまうからなあ、人のこと言えないけど。

(連載第69回・2003.6.14)


#今週の高給取り

谷川茂次郎という人物はという人物は、関西の新聞界ではだれひとり知らぬもののない、まことに異色ある名物男であった。(中略)谷川は、紙代のしはらいの悪い中小新聞に金を立て替えたりなどして、たちまちに財を成して、ひとかどの大金持ちになった。(中略)彼は文盲で目に一丁字もなかった。そこで、学校出のインテリ家政婦を、月給百円という当時としては全く破格の高給でやとい、これに新聞や本を読ませ、のちには自分でも紫野の大徳寺の和尚から、習字の手習いをうけたという。

内川芳美『新聞史話』社会思想社

 一般的なイメージからすると、使用人と雇用主では普通雇用主の方が教養があるものだと思うものでしょうが、何事にも例外はあるというお話。引用したのは日本の新聞の歴史について書かれた本の一節ですが、新聞の用紙を取扱う中でのし上がった男の一挿話です。新聞業界に食い込んで財を成した男が文盲だったというのがそもそも冗談みたいな話であります。なにせ物語風な本なので、これが一体いつごろのことなのか分からないのですが、明治の後半頃ではないかと推測されます。で、その頃の月給百円というのを現在の貨幣価値に換算しますと、ざっと2万倍くらいになります(物価ではなく給与ベースでの換算)。つまり月給二百万円のインテリ家政婦! 当時の女性でこれほどの給料を取っていた人が他にどれだけいたのでしょうか。ともあれ、成り上がりの金持ちならではの逸話といえるでしょう。

(連載第68回・2003.6.7)


#今週のフレンチメイド

 私はロンドン直輸入のメイド用ラバーコスチュームを見たが、それはL・ブニュエル監督の『小間使いの日記』に登場した、あの典型的な黒いメイドの制服であり、ミニスカートの前に白いエプロン(フリル付き)が、可愛らしく付いていた。アリスとラバー ――アリスのような少女がこのラバーを素肌にフィットさせた姿を想像して、私はその“差異の美学”に、陶然としてしまった。固有のスタイル(=制服)のもつイメージの属性と、ラバーという材質の放つ雰囲気の落差――そう、どんな場合でも、ズレはつねに煽情的だ。

北原童夢『フェティシズムの修辞学』青弓社

 官能小説の書き手として知られている北原童夢氏が、さまざまなフェティシズムの世界について蘊蓄を傾けた刺激的に面白い一冊です。その中でレザーやラバーの装身具の世界の魅力を叙した箇所から引用しました。ミニスカでラバーなメイドさんといえば、要するにエロゲーはじめ各種エロメディアでおなじみフレンチメイドであります。その魅力を北原氏は引用部のように説かれているわけですが、むしろいわゆる「メイドさん好き」な人たちからは、邪道だとか「えっちなのはいけないと思います」とか、とかく評判は悪い存在ですね。
 しかし、筆者が読んだ僅かばかりの文献から無謀にも推測したことですが、メイドさん華やかなりし英国ヴィクトリア朝での、強固な道徳観念と実状との乖離から生まれたSM的世界が、第一次大戦後ボンテージの誕生につながり、それが第二次大戦後アメリカに渡って一挙にブレイクし、そして日本にやって来た――というような壮大な流れがどうやらあるようなのです。ということは、一見邪道に思われるフレンチメイドこそが、案外ヴィクトリア朝文化のれっきとした末裔とも考えられるのではないでしょうか。なあんて、それこそ通念とのズレのもたらす煽情に、筆者自身が酔ってるだけかもしれませんけど。
 北原氏によると、この手のラバーやらレザーやらのグッズは、普及に功あった米国の製品より、イギリスのそれの方が「洗練された美意識」があるそうです。これも伝統の力なんでしょうかね。いろいろ眺めて、いろいろ考えてみるのも面白そうです。

(連載第67回・2003.5.31)


#今週の映画鑑賞

 映画の中でフェティッシュな情景をみせてくれて衝撃的だったのは、ルイス・ブニュエルの(中略)『小間使いの日記』(一九六三年)である。ここでは、女性の革靴にたいしてのフェティシストの老人が登場する。彼が、小間使い(ジャンヌ・モロー)に靴をはかせて歩かせてみたりするが、ある日その靴との「交情中」に頓死してしまう。これはみていて異様だが、フェティシストの老人の死に方としては、好きな女の腹の上で死ぬのとおなじくらい幸せな死に方である。

石井達朗『男装論』青弓社

 去年『8人の女たち』というフランス映画を見に行った話を書きましたが、その映画に出てきたメイドさんの元ネタがそもそもこの四十年も前の映画にあるんだそうです。残念ながら筆者は未見ですが、どうも映画業界におけるメイドさん像に多大なる影響を残した作品であることは確かなようです。
 まあそれはともかくとして、引用元の本来の内容は、題の如く女性の「男装」について、ジョルジュ・サンドあたりから始まって『エイリアン』のシガニー・ウィーバーなどに至るまで、さまざまな角度から語られているとても面白い本でした。
 ところで、「男装」ってかっこいいイメージがありますが、「女装」だと(やおい業界など一部を除き)変態というイメージが付き纏うのは避け難いものがあります。なんでかなあと思うのですが、依然紹介した『誰がズボンをはくべきか』あたりを手掛かりに考えるに、そもそも女性の衣裳(スカート)に比べ男性の衣裳(ズボン)の方が「高等」という男尊女卑的イメージがあったためではないかと思います。そのため、女性が男装することは男から「生意気」という反発を受けますが、その行為は(低位な)女性の衣裳から(高位な)男性の衣裳への「上昇」であるため、よいイメージも帯びることができるのではないかと。一方の女装は、本来男という(高位な)衣裳から女の(低位な)衣裳に転落することになるので、ネガティヴなイメージをかぶせられるのではないかと思うのであります。

(連載第66回・2003.5.25)


#今週のフェティシズム

 今になって、自分がどんな風に成長して来たのかを正確に辿るのはかなり難しい。昔からずっと女性の手が気になっていなかったと言ったら嘘になるだろう。(中略)私は母の手に夢中で、幼い頃から母の手をぴしゃぴしゃ叩いたり、なでたりして弄んでいた。家のメイド達や家庭教師、家で働いている女達の手も魅力的だったな。(中略)
 手袋をした女性の手を、初めて美しいと感じたのがいつのことだったのか、今となっては思い出せない。あの頃は女性が手袋をするのは当然だったし、手袋無しで外出する女性は滅多にいなかったんだ。(中略)一度、メイドが母の部屋を整理するのを私が手伝った時、母が引き出しの中にしまっていた三種類の手袋を、どうしてもそのメイドに着けてもらおうとして彼女を困らせたこともあった。その当時も、その後の数年間も、なぜ自分がこんなにも手袋に引き付けられるのか、自分でも解らなかったし、訊かれても説明できなかったと思うね。ただ好きだからとしか言いようがなかった。まあ今思えば、その時は何も知らない子供だったが、やっぱりきれいな女性の手に着けられた良質の手袋を見たり触ったりすると、私は性的に興奮していたんだ。

作者不詳「ビロードの滴」
(『SALE2・VOL17・NO44』フィクション・インク/八曜社)

 なんでこんな本、というか雑誌が手許にあるのか自分でもよく分からないのですが(買った本屋にはよく行っていましたが、バックナンバーもこれ以降の号も見たことがありませんでした)、なかなか面白い一冊でした。この号は性倒錯特集で、そのひとつの例としてフェティシズムの人の手記が取り上げられており、引用部はその一節です。どうも後期ヴィクトリア朝(とはメイドさん全盛期)ころに生まれた人のようですが、この人が晩年を迎えるころには手袋を付けるという文化はほとんど衰亡してしまいました。ですから手袋フェチというのは今となっては生まれようもない性癖となるのでしょうが、それだけにこの人の事例はメイドさんがいた時代を良く反映しているのではないでしょうか。
 ところで、この本にはジェラード・マランガという写真家の展示会の案内が載っていたのですが、その広告として? 掲載されていた写真(もしかしたらこの写真展とは関係ないページ埋めなのかもしれませんが)の、ネクタイをした女性の姿は、筆者のメイド服その他制服系衣装への傾倒のひとつの起点になったのではないかと今にして思うのであります。この雑誌、この号には香山リカが書いているし、バックナンバーの案内を見ると岡崎京子だとか荒俣宏とかの名前もあって、もし古書店でバックナンバーを見つけたら買ってみようかなどと思っています。売ってるのを見たことがないんだけど。

(連載第65回・2003.5.17)

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第27回〜第39回(3クール目)

第14回〜第26回(2クール目)

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